正親町天皇
歴史ものを読むときに便利だろうと思って、『歴代天皇事典』PHP文庫 っていうのを買った。後醍醐天皇の表紙がス・テ・キです。
神武天皇からきちんと書いてあるとこがいいよね。どこの国でもそうなんでしょうか。神話と現実のラインってクリアじゃないんでしょうか。10代目の崇神天皇からが実在の人物だった可能性が高いそうです。最も「神武天皇が居たという明確な証拠はないが、実在でない、という証拠もない」と書いてあります。いいんじゃないですかね、そういうことで。天皇家はやっぱり神武天皇以来、ってことで祀っていらっしゃるんでしょうか。
それで、そう言えば戦国時代の天皇ってどうなっていたでしょう。何か傀儡将軍と言われた足利義昭の動きだけが記されていて、それ以上の偉い人って聞かなくないですか?ええ、ちゃんと居ますよ、天皇は、当たり前だけど。正親町天皇(おおぎまち)です。この人何もしてないわけじゃなくて、いろいろ政治的に動いているわけですよ。だって、この時代ほど天皇が重要な時代ないわけじゃないですか。戦国大名は天皇が居るから京都に上りたがっているわけですから。秀吉を関白に、家康に征夷大将軍を与えたの天皇ですし。信長はなんだか与えようとしたけど、断られましたね。
ウィキペディアより
後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。しかし、弘治3年(1557年)の践祚では天皇や公家達は、権威はともかく金銭的には既に生活に窮するほど落ちぶれており、即位の礼さえ挙げられなかった。毛利元就などの献金を受けてようやく即位の礼を挙げることができた。このとき、本願寺法主顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられ、以後本願寺の権勢が増した。天皇家の財政はこのように逼迫し、権威も地に落ちかけていた。だが、永禄11年(1568年)の織田信長の上洛によって、この状況が変わってくる。信長はもはや破綻寸前に陥っていた天皇家の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。その一方で天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対してたびたび講和の勅命を出させることとなる。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との講和はいずれも正親町天皇の勅命によるものである。(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。
豊臣秀吉に政権が移った後も、秀吉が権威の後ろ楯として天皇を利用した。そのため、天皇家の権威は高まった。このように織豊政権と天皇家は互いに利用しあう関係にあった。
正親町天皇の治世は織田信長と豊臣秀吉の全盛期にあたる。信長の援助のもと、応仁の乱より衰退しきった朝廷を立て直した時期であった。
うんでさ、この方は信長にうまいこと金ださせたり、そろそろ引退しませんか、とか言われてものらりくらりかわしたり、なかなかやり手だったようですよ。そりゃ、そうですよね、天皇家だって生きていかねばいけませんから、乱世は殿上人にとっても乱世です。
歴代の大河ドラマのデータをちょいと見てみましたが、戦国モノにはほとんど天皇の配役はありませんでした。でも、正親町天皇なんか在位30年ですよ。平安後期~鎌倉、室町なんて、院政があったせいもありましょうが、みんな一桁の在位じゃなかったかなあ。
ちょっと歴史をひもといただけでは、ここまでわかりませんので、本書を購入したのはお得でした。天皇家から見る歴史もおもしろいですね。
あっ、ちなみにアマサイは義昭は賢将軍だったと思います。あの時代、地位について天寿を全うしたってのがすごいです。生まれた時代が悪かったのでしょう。慶喜は、ね、だめでしょう。
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