裁判の外にあるもの1/2
ちょっと気になることがあって、柳美里の『石に泳ぐ魚』の裁判について検索をかけた。(本書は発禁になったが改訂版は許され、単行本として出版された。つい先頃それが文庫化された)
ネットニュースの軽いモノのでよかったのだが、時間が経ちすぎてしまい、それらはすべて消えていた。判例集まで読む気はない。識者のコメント、小論のようなものはよくヒットする。
当然と言えば、当然だが、表現の自由か、個人のプライバシーかの論点について語られている。モデルになった方の容姿はプライバシーか、関係者の経歴は事実かなどに触れられている。
一個人が反論をしたい場合、そういう裁判しか手だてがない。
でも、違うでしょう。その人が言いたかったのは、
「友達だったら小説にそんなこと書かないよね」
ということである。どうも、その気持ちは作者の心には届いていないようだ。
判決が出た当初柳氏の「読者はモデルの実体までに思いをはせない」という主張がネットでも記載されていた。そんなことない。モデルがあれば、読者はこの人は現在どういう生活をしているのかぐらい思う。何かのきっかけにモデル氏を知ることがあったなら、好奇の目で見られるのは必須ではないか。それを彼女はいやがっているのである。普通わかるだろう、それくらい。私もそのように某所で意見を書いた記憶がある。
今考えてみれば、これは柳氏が裁判のために仕方なく発言したこと、または言葉のあやのような気がしてきた。被告側も別に表現の自由を殊更主張したいわけではないようだ。ネット検索では、デビュー作だから、出版したい、その文言が繰り返し出てきた。それが作者の本心であろう。
もう裁判が始まった時点で、モデル氏と作者の考えは蚊帳の外になってしまった。皮肉なことである。裁判は勝っても負けても誰も得はしない。そもそも裁判で決着をつける件ではなかったのだ。
このように裁判は当事者とは離れて別の論争を生むようである。しかし、私たち一般市民は裁判にもでならない限り、このようなことを考える機会は与えられない。これも皮肉なことといえようか。
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