桜田晋也著『武神-八幡太郎義家-』

Bushinyoshiie『武神-八幡太郎義家-』
著者:桜田 晋也著
価格 : ¥819 (本体 : ¥780)
出版 : 学陽書房 人物文庫
発行 : 1997.11

頼朝様や足利尊氏が武家の棟梁と敬う義家ってどないな人やねん、というのが、アマサイの長年のなぞであった。きちんと文献を探して読めばわかるのであろうが、伝記小説なんかでお気軽に知りたいのである。って、春日局を捜していたら偶然見つけただす、本書を。

現代では、残忍なもののふとして知られているようであるが、本書では、頭は切れて、気はやさしくて力持ち、的な人物に描かれています。

前九年の役は、貞任が光貞に『蝦夷には嫁はやれぬ』と罵られたことが発端であった、と同情を寄せているし、

清衛、家衛に奥州を分割統治するように取りはからったのは、義家であるし、

後三年の役は、朝廷には私闘と片づけられているが、あれをそのままほうっておいたらどうなるねん、ということになる、

悪名高き金沢柵においては、「自分たちで事を起こしておいてぎりぎりになって勘弁してくれってどういうことやねん。大将自ら首を差し出し、他の者は許してやってくれ、というのが本筋だろが。家衛、武衛はトンデモねえ」というのは理に適っている。

まあ、殴られた方はさ、自分から手を出したとか、自分の方がひどいことしたっての忘れて、殴られた記憶だけ残るから源氏嫌いになるのは当然だと思うが。

朝廷貴族ども、武士を利用しっぱなしかい。源氏と平家を代わる代わる贔屓にし、その場を乗り切ってきたのは、このころからあったんであるな。

日本史においては、戦前に英雄視された人間は、戦後には何が何でも貶めねばらなぬ、という心理が働いているような気がするなあ。

そもそも、人殺しが生業の武士に向かって、残忍という言葉はよくよく気を付けて使わねばいけませんな。信長が寺を焼いたのと同じです。どうして、そこまでしたのか、ということを人格のせいだけにするのはいただけません。

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・義家が七代目の子孫が天下を取ると遺言したという逸話、これはないでしょう。どっかのHPに書いてあったが、この当時天下を取るという概念はないから。頼朝様のときも、ない。源氏の故郷とも言える関東地域及びその周辺を独立させたかっただけ。それに七代目は家時のはずなのに、自分ができなかったから孫にって(尊氏くんに)、予言は適わなかったってことでしょう。北条家は平氏だから、源氏に取り戻したいという願いは足利家にあったかもしれませんね。でも、平氏も源氏も途中で所々繋がっているし。


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正親町天皇

歴史ものを読むときに便利だろうと思って、『歴代天皇事典』PHP文庫 っていうのを買った。後醍醐天皇の表紙がス・テ・キです。

Rekidaitenno神武天皇からきちんと書いてあるとこがいいよね。どこの国でもそうなんでしょうか。神話と現実のラインってクリアじゃないんでしょうか。10代目の崇神天皇からが実在の人物だった可能性が高いそうです。最も「神武天皇が居たという明確な証拠はないが、実在でない、という証拠もない」と書いてあります。いいんじゃないですかね、そういうことで。天皇家はやっぱり神武天皇以来、ってことで祀っていらっしゃるんでしょうか。

それで、そう言えば戦国時代の天皇ってどうなっていたでしょう。何か傀儡将軍と言われた足利義昭の動きだけが記されていて、それ以上の偉い人って聞かなくないですか?ええ、ちゃんと居ますよ、天皇は、当たり前だけど。正親町天皇(おおぎまち)です。この人何もしてないわけじゃなくて、いろいろ政治的に動いているわけですよ。だって、この時代ほど天皇が重要な時代ないわけじゃないですか。戦国大名は天皇が居るから京都に上りたがっているわけですから。秀吉を関白に、家康に征夷大将軍を与えたの天皇ですし。信長はなんだか与えようとしたけど、断られましたね。

ウィキペディアより

後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。しかし、弘治3年(1557年)の践祚では天皇や公家達は、権威はともかく金銭的には既に生活に窮するほど落ちぶれており、即位の礼さえ挙げられなかった。毛利元就などの献金を受けてようやく即位の礼を挙げることができた。このとき、本願寺法主顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられ、以後本願寺の権勢が増した。

天皇家の財政はこのように逼迫し、権威も地に落ちかけていた。だが、永禄11年(1568年)の織田信長の上洛によって、この状況が変わってくる。信長はもはや破綻寸前に陥っていた天皇家の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。その一方で天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対してたびたび講和の勅命を出させることとなる。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との講和はいずれも正親町天皇の勅命によるものである。(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。

豊臣秀吉に政権が移った後も、秀吉が権威の後ろ楯として天皇を利用した。そのため、天皇家の権威は高まった。このように織豊政権と天皇家は互いに利用しあう関係にあった。
正親町天皇の治世は織田信長と豊臣秀吉の全盛期にあたる。信長の援助のもと、応仁の乱より衰退しきった朝廷を立て直した時期であった。

うんでさ、この方は信長にうまいこと金ださせたり、そろそろ引退しませんか、とか言われてものらりくらりかわしたり、なかなかやり手だったようですよ。そりゃ、そうですよね、天皇家だって生きていかねばいけませんから、乱世は殿上人にとっても乱世です。

歴代の大河ドラマのデータをちょいと見てみましたが、戦国モノにはほとんど天皇の配役はありませんでした。でも、正親町天皇なんか在位30年ですよ。平安後期~鎌倉、室町なんて、院政があったせいもありましょうが、みんな一桁の在位じゃなかったかなあ。

ちょっと歴史をひもといただけでは、ここまでわかりませんので、本書を購入したのはお得でした。天皇家から見る歴史もおもしろいですね。

あっ、ちなみにアマサイは義昭は賢将軍だったと思います。あの時代、地位について天寿を全うしたってのがすごいです。生まれた時代が悪かったのでしょう。慶喜は、ね、だめでしょう。

忙し-疲れた-ぐったりのループに入ってしまいました。更新しなくても、人気ブログランキングぷちっとな。よろぴくね。【押す】≪コメントはここ

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天璋院篤姫

2008年の大河ドラマの発表があったとき、
篤姫?知らない、そんな人、
大奥?べちべちねちゃねちゃして嫌~い、
という無知をさらけ出したアマサイであった。

その後、今年になってからかなあ、江戸城無血開城は大奥がキーを握っていた、と聞いて、ああ、あの人じゃないか?
と思い出した。

ずいぶん前に大政奉還時の大奥の女たちを描いたドラマがあった。女たちは徳川家を見捨てようとする武士たちと違って、最後まで江戸城に残ろうとする。結局、城外に避難せざる得ないのだが、女たちはみな町中で安らかに暮らしていけるようになる。明治の時代になって、人々は噂する。敵前逃亡した一橋さん(慶喜)に比べ、○○様はご立派でした、と。それが天璋院篤姫じゃなかったのかな。(ウィキペデアで見ると83年にやった『大奥』みたいなんだけど、ちょっと確信が持てない)

昨日NHK『その時歴史が動いた』を見てかんどーしてしまったよ。幕末にこんな立派な女性がいたとはねえ。一般的に男より女の方が責任感が強く、行動力があるのは動かせない事実だと思うが。開城と同時にリストラされた大奥の女たちに就職先を世話したり、なかなかできるこっちゃないです。和宮との関係も涙をそそりますなあ。島津家の援助も蹴るとこなんぞ、さすが、薩摩おごじょです。

先週同番組でやっていた天英院煕子にしても、初期の大奥の主春日局にしても、江戸城には偉大な人がたくさんいたのですね。

私たちはもっと、もっと先人に学ばねばいけません。

今読んでいるのは八幡太郎義家『武神』です。この人は奥州藤原に繋がっているのですね。やっぱり歴史はおもしろいね。今日も人気blogランキング・自然科学にぷちっとな。【押す】
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関ヶ原

信長は立派な人だと思う。でも、秀吉も家康もあんまり好きじゃない。秀吉は自分の子、秀頼かわいさで晩年狂うし(ほんとに秀吉のタネだったのか?)。

家康はたぬきオヤジという評判とは違って、政治家として優れた武将だということは井沢元彦著書でわかったけれど、そこがまたちょっといや~な感じである。うん、仕事は出来るけど女性にもてない部長クラス、と言った感じ。

それに関連して関ヶ原の戦いはあまり興味がもてなかった。不思議なのは、どうして秀吉の家臣たちが家康に簡単に寝返ったのか、よくわからない。興味がないので、探求しようとも思わなかったのだが。

『功名が辻』もいよいよその時代に入った。ちゃんとは見ていないのだけれど、おぼろげながら関ヶ原までの人間関係がわかってきた。


・関ヶ原は「対家康」ではなく、秀吉の家臣の内部分裂である。
 ⇒これは井沢の本にも書いてあった。しかし、多くのドラマなんかには、家康が天下を横取りしたみたいな構図で描いているのではないだろうか。

・三成は結構ワルである。
 ⇒と言っていいのだろうか。今回の大河ドラマではそういう風に見える。いち早く秀頼母子を取り込んで自分の方に有利に動いている。そこまで行かなくても、単に亡き秀吉へのご奉公、だけではないようだ。

・戦国武将の全ては初めから合理的に動いている。
 ⇒私たちがイメージする主君への忠義は鎌倉時代と徳川政権のごく一部である。家督の安泰と忠義のバランスをうまくとるものが勝っていく。それは想像するよりもドライである。「情はあってもよいがなくてもよい」のである。

・関ヶ原が起こったのも、秀吉の晩年の不手際、悪政のせいである。


無理矢理箇条書きにしたので、こうでない側面も当然ある。この件をまとめるにはもっと時間がかかるので。

大河ドラマの今と昔が違うのは、史学研究成果をうまく取り入れているからだろう。

一豊の関ヶ原直前の演説、
「儂は信長様、秀吉様に仕えてきて負けた戦はただ一度だけである。これは儂が偉いのではなく、お仕えした方々が偉いのである。しかし、その主君を選んだのは儂である。儂は運が良い。皆の者、儂の運を信じよ」
はとてもよかったです。

脚本家の着色であろうが、よくできている。


ビデオが壊れたのでドラマをよく見逃します。でも、録画ってできないと思えば、別に不便じゃないですね。人気ランキングぷちっとな。【押す】
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曽我兄弟

日本史、なかんずく、鎌倉時代が好きなアマサイちゃんである。
「頼朝をめぐる人々」という内容で夏期1日大学講座があったので行ってみた。
講師の方は、中世日本の政治を専門としている方で近著にこがなものがある方である。

Sogamono
■曽我物語 - 物語の舞台を歩く -
著者:坂井 孝一
価格:\1,890 (本体 : \1,800)
出版: 山川出版社
発行: 2005.2

曽我兄弟に関しては仇討ちを果たした、くらいしか知らない。鎌倉時代関連書物を読んでもそんなに大きくページは割かれていないと思う。しかし、今回、

・忠臣蔵を含む、日本三大仇討ち、と言われるくらい有名

・そのなかでも曾我兄弟は絶大な人気を誇っていた。

・戦前まで学校で普通に教えられていた。

・歌舞伎では曽我物という一分野が存在する

ということをほぼ初めて知った。

戦後の進駐軍の方針により、仇討ち話は教育からも演目からも排除された。その中でも、若者が敵討ちに一生を捧げる、という生き方は好ましくないと厳重注意されたようだ。アメリカ軍の縛りが解除されたあとでも、忠臣蔵は自然に復活したのに対し、曽我物は教育関係者が自主規制しているという。

うーむ、そりゃ仕方がないな、と思う。幼少のときから人殺しを目指して生きていくわけだから、現代の倫理観から肯定するのは難しい。まあ、文学作品として古典に組み入れるのはいいではないかと思う。

忠臣蔵と違って、聞き慣れていないせいか、
ああ、かわいそうな兄弟だなあ、としか感じなかった。

私が興味を惹いたのは『吾妻鏡』には成人した頼朝が将軍になるまでは描かれているが、流人時代として過ごした蛭ヶ小島での生活は『曽我物語』にしか書いていないということである。また、この仇討ちの影の主役が源頼朝なのである。

おお、大好きな頼朝様の原型があるのならば、勉強しなくては。

また、鎌倉幕府の家臣、関係者というと、梶原景時とか大江広元とかしかイメージできないのだが、この際、家臣団の人となりも覚えよう。
(伊東とか工藤とか普通の名前でよくわかんないおじちゃんたちが多いんだもん)

というわけで夏の最後に価値あるものを得ました。

ところで、アマサイはこの占いをやってみたら、
日本歴史占い
http://uranai.artisthouse.co.jp/
北条政子でした。
歴史上尊敬する女性なので満足です( ̄▽ ̄)v

この後にディベート合宿に行ったのだが、その話は別項で。というわけで、人気blogランキング」ぷちっとな、宜しくお願いします。【押す】
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歴史はおもしろい

本郷和人著『人物を読む日本中世史』なかなかおもしろいので読後に書談でアップすると思う。
前書きで本郷先生が嘆く。

「日本史が必修をはずれたために知識がまるでないまま大学に入学してくる。知識があればいいというものではないが、なさ過ぎる。」

えっ?必修から外れたっていつから?
アマサイはだいぶ前に高校を卒業したが、日本史なんて習わないかったですけど。
でも、歴史は大好きですよ。

「特に前近代史、中世史のことは知らないし興味がないし」
うーん、それは、近代史・現代史はそこそこ知っているということでは?
昔は学習量が多すぎて、カルキュラムが全部終わらない。歴史の授業は黒船あたりで終わるか、明治以降は駆け足になっていたんだよね。その反省から現代史を別個に教えることになったんだよね(と十数年前に聞いた記憶があります)。

マイナスばかりに注目していてはよくないと思うんだ。

アマサイは学校だけに教育を頼っていてはダメだよ、何度か書いていてます。

というか歴史とか文学は学校で教わったから好きなるという類のモノではないと思うんだ。元々歴史が好きだから学校の科目もがんばるわけだよ。講談本で日本史に興味を持った年輩世代は多いと思う。

特に歴史は好き嫌いがはっきりある科目です。
歴史の先生は、そこいらへんの需要を把握しないとね。
大学の教養課程で歴史好きになるのは難しいかもね。

NHK大河ドラマもアイドルと言われる役者を使うので、若い人も相当量見ているはず。

少なくとも理科離れほど歴史離れはないと思いますが。

まあ、確かに室町時代なんかはドラマになりにくいから人気度は低いでしょうね。古代史は結構根強いファンがいますね。時代によって愛好家が多い少ないがあるのは、嘆くことではないでしょう。

アマサイなんかは人間に生まれてきて、歴史が嫌いなんてあるのかな、考えられないな、と思っているほど歴史好きです。

もし、学校で年号や用語暗記で嫌気がさしている人がいるなら、ちょっと視線を変えてみましょう。小説や歴史雑学本なんかを手に取ってみると新たな世界が発見できるかもしれませんよ。
(^_^)

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ガリレオ裁判の記録

『その時、歴史は動いた』でガリレオのことをやっていた。
以前書いたように、ガリレオはマイヒーローである。
45分では物足りなかったが、歴史教養番組に科学者が取り上げられたこと自体画期的なことと解釈すべきでしょう。

ローマ教皇庁にはガリレオ裁判記録がまとめてある。その発刊は1984年なのだが、その後も記録文書が発見されたそうだ。これは機密文書なので公開はされない。で、NHK取材班が閲覧を許されたということらしい。

改めて特番をつくるのだろうか。

ポイントは、
・ガリレオはとある人物にはめられて宗教裁判にかけられてしまった。
・ガリレオは裁判後も物理学の情熱を絶やすことなく、物理学の成果をまとめた本を執筆する。

マイヒーローといえども、子供のころに読んだ伝記以上のことは積極的に取り入れているわけではないので、参考になる話だった。

やはり、歴史上上でガリレオほど偉大な科学者はいないと再確認してしまった。

サイト内の以下のページに結構詳細に資料が記載されています。
第250回 それでも地球は動いた
~ガリレオ・ガリレイの栄光と挫折~

* * * *

うーん、で、番組タイトルで検索をかけたら以下のようなページが見つかった。
NHK「その時歴史が動いた」との決裂

この方は、退官された日本近代史の専門家で、「ええじゃないか」に関して新説を提示されたので有名らしい。で、NHKに専門家としての出演してほしいと言われたのだが、内容をよく聞くと、それは彼の説をねじ曲げるものであったので、辞退し、その顛末が語られている。

「NHKの態度に、史実に基づいた番組ではなく、エンターテイメントだという態度が感じられるからである。」

「このトラブルは、にわか勉強のディレクターに責任があるが、旧説にこり固まった番組上層部の保守的態度が最大の原因である。」

「新聞記者もテレビ・ディレクターも本を読まないらしい。すべて耳学問である。それを自分の高校程度の知識に接木し、新発見とか新見解といって騒ぐのである。」

そういう気はたぶんにしますなあ。

NHKの慢心はちょっとやそっとでは直らないらしい。

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頼朝の死が意味するもの(2)

2回別の件が入ってしまったが。

『英傑の日本史』を読んでみたので。

すべて陰謀説の特徴だが、実行犯の名前が出てこない。
井沢氏は頼朝を見限った鎌倉武士団が彼を殺した、と言っているが、
じゃ、誰よ。

武士団と言っても一枚岩じゃないよね。幕府をうち立てから鎌倉の人々をまとめるのでたいへんだったじゃん。っていうか、頼朝が死んで一番困るは北条家ではないの。娘婿だから、義兄だから、時政も義時もえらそーな顔ができているわけで、なんでそんな大切な人をなきものにしなきゃいけないのかねえ。

井沢説の根拠は、吾妻鏡には落馬で死んだと書いてあるが、戦にも行った頼朝が馬を扱いを間違うわけないではないか、ってことだけなんだよね。

さあ、わかんないけど、鎌倉に来てからは、流人だったんだから、戦いのときのような緊張感を持って馬には乗らなかったんじゃないの。乗馬経験者が絶対に馬から落ちないって証明でもあれば別だが。

また、北条政子の章では、鎌倉武士団、北条家を守るために頼家、実朝殺しに加担したのではないか、とも書いている。ここで司馬遼太郎の言葉を引用しているのが、それには、「政子は公家した息子を許さないでしょう、政子の間接的な命令で息子、孫が死んだ」としか書いていない、井沢説を補強する資料にはならないよね。別にここでは資料批判をしたいんじゃないので、詳細にはのべません。

ここが、井沢歴史学の限界なのである。「歴史家は史料至上主義で記載していないことは無いモノ、あるいは現代的で解釈をしてしまう」という考え方は、私たちに歴史の広がりを教えてくれたのだが、史料の空白部は想像で埋めてよし、としている。偽装ならば、病死したでもよいのに、なぜ落馬としたか。そこまで追求してほしいよね。

まあね、井沢氏は歴史学者じゃなくて小説家だからね。想像で言って何が悪い、って開き直れるからね。

ちょっと、先のアカデミズムとジャーナリズムの話にちょいと似ているね。井沢氏は、自分の著作をなぜ歴史家は引用しないのか、とかむちゃくちゃないことは言いませんけどね。

頼朝の死は不慮の死であり、子、孫が死んでいくなか、政子は亡き夫、頼朝の意思を継いで不本意ながら、幕府創設の立て役者にならざる得なかった、鉄の女になるしかなかったというのがアマサイの見解である。

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頼朝の死が意味するもの

頼朝の死因は不明らしい。『吾妻鏡』には落馬で亡くなったと記載しているのだが、それが唐突で、だいぶ後の方に「頼朝様は馬でお亡くなりになり」みたいな回想で書いてあるのだそうだ(未確認)。

それで井沢元彦氏は頼朝は暗殺されたのではないかと考えている。頼朝は独立武家政権設立のために戦っていたわけだが、晩年はひよってしまい天皇・公家方につこうとしたというのだ。その根拠として娘を天皇家に嫁がせようと目論んだ、即ち天皇の外戚になり、ポスト藤原家・平家をめざそうとしたというのだ。それでは今までと同じではないか。京都から独立しなければ、武士の生活は成り立たない。頼朝は我ら関東武士を裏切った。せっかく耕し護ってきた土地を貴族なんかに我が物顔にされてたまるか、ということである。

長年『逆説の日本史』を読んでいるとそうなのかなあ、という気はする。

暗殺説は確かめようがないが、変節はどうなのだろうか。それこそ、人の心はままならぬから、例え当人に聞くことができたとしても「いや~、やっぱり都が恋しくなりましてな」と言うはずもない。

私は、天皇家と婚姻関係を持とうとしたことぐらいでひよったというのは、ちょっときつい縛りではなかろうかと思う。関東武士団をつくるにしても、京都は押さえておいた方がいいではないか。事実のちに鎌倉幕府を倒すのは天皇とそれを信望する者たちである。その前に後鳥羽上皇ってのもいるしさ。

いくら単なる旗頭とはいえ、そんなに簡単に落としていいものだろうか。

と私が考えるのは、北条政子の立場である。彼女はその後、息子も孫も武士団の殺戮にあっているのだ。そう考えれば、夫さえも、とも推測できるが、じゃあ、彼女の心の支えは、惚れた男ではなく、関東武士団なわけ?夫である組長より組が大事な極道の妻なわけかい?

なんかおのこが書く歴史書や小説にはそこいれへんが書いていないのだ。

尊敬する歴史のおばば・永井路子さんは承久の乱の政子の演説は、やらせだと断言している。夫に変わって積極的に政治家になったのではなく、運命の翻弄されたかわいそうな女性であると。

頼朝の死の周辺は日本史屈指の謎ではないかと勝手に思う次第である。

↓こいつをまだ全部読んでいないんで、それからまた考察して見ようと思います。
■『英傑の日本史 源平争乱編』
著者:井沢 元彦著
価格:1,575 (本体 : \1,500)
発行: 2006.2
出版:角川学芸出版

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